伸線の歴史2

■1800年代後半

ワイヤーを通し寸法精度を出すために、数種類のたたきダイスが用いられました。

また、伸線の巻き取りは、水車などの回転を利用して行われていました。

 

■1900年代前半

1900年代になるとダイスの穴に通せるよう、線の先端を細くする先付は、多品種にわたり製造されるようになり、ダイスは緻密性が増しました。

 

 江戸時代末期に始まった伸線作業は、樫の木の丸太に穴をあけて線材を孔に通して人力によって引っ張って伸ばすという原始的な作業でありました。

 明治期に入ると生駒山頂から西部の谷に向かう急流付近にある水車を利用して、水車を動力とする伸線作業が発達するようになり立地的に適していた枚岡地区では、明治中期には10を超える工場が立ち、盛んな産業として発展していった。また材料革命により、それまで銅か真鍮であった素材が鉄材に代わり、その安さと汎用性から、主に大阪の針金問屋からの注文が入るようになって、枚岡の伸線業も次第に鉄線へと代っていきました。

 

その後大正期に入ってからは、その動力源を水車から電動機に代わり、安定した生産活動ができると、昭和10年には、大阪府道・大阪枚岡線(産業道路)の開通もあり、こうした状況下で枚岡の鉄線業は増え、昭和10年には100社近くにもなりました。戦前戦後は、配給下にさらされ量的規制もあり、市場の混乱に見舞われたが、昭和30年代以降、高度成長期においては連続伸線機の登場など生産合理化に拍車がかかり、40年代初めには東大阪の伸線業社の数は140に至るまでとなりました。

 生産高では東大阪市工業生産の10パーセントを占め、全国シェア40パーセントを占める東大阪市最大の地場産業の地位を築いていきました。

ところが、生産過程において酸洗に使用していた生駒山からの流水が廃酸となり、それが農業に害を与えるとして問題となってきました。こうような公害問題や人手不足、労使関係の悪化等の様々な問題により、伸線工場の数は昭和50年代以降減少の方向になっていき、生駒山麓部に集中して立地してきた“伸線の町”も工場跡地にマンション等が建つようになってきているのが現状です。

 

弊社といたしましても、鉄鋼2次製品3製品の加工会社ではありますが、微力ながらも地域地場産業に貢献していきたいと思っております。